古事記 解説

武田祐吉 1886-1958 大正-昭和時代の国文学者。 明治19年5月5日生まれ。大正5年から東京帝大の佐佐木信綱のもとで「万葉集」校訂にあたり,「校本万葉集」を刊行。15年国学院大教授。「万葉集」を中心とした上代文学の文献学的研究をすすめ,昭和25年学士院賞。昭和33年3月29日死去。71歳。東京出身。国学院大卒。著作に「万葉集全註釈」「上代国文学の研究」など。

 古事記は、上中下の三卷から成る。その上卷のはじめに序文があつて、どのようにしてこの書が成立したかを語つている。古事記の成立に關する文獻は、この序文以外には何も傳わらない。
 古事記の成立の企畫は、天武天皇(在位六七二―六八六)にはじまる。天皇は、當時諸家に傳わつていた帝紀と本辭とが、誤謬が多くなり正しい傳えを失しているとされ、これを正して後世に傳えようとして、稗田(ひえだ)の阿禮(あれ)に命じてこれを誦み習わしめた。しかしまだ書卷となすに至らないで過ぎたのを、奈良時代のはじめ、和銅四年(七一一)九月十八日に、元明天皇が、太(おお)の安萬侶(やすまろ)(七二三歿)に稗田の阿禮が誦む所のものの筆録を命じ、和銅五年(七一二)正月二十八日に、稿成つて奏上した。これが古事記である。
 かようにして古事記は成立した。その資材となつたものは、諸家に傳わつていた帝紀と本辭とであるから、さかのぼつてはこれらの性質をあきらかにし、ひいてはこれらが古事記において、どのような形を採つているかを究めなければならない。
 帝紀は、帝皇の日繼ともいう。一言にして云えば、天皇の歴史である。歴代天皇が、次々に帝位を繼承された次第は、天皇の大葬の時に、誄詞(しのひこと)として唱えられていた。その唱えられる詞そのままでは無いだろうが、たぶんそれと同じものから出て更に内容の豐富になつたものが、比較的早い時代から、既に書卷の形になつて存在したのであろう。推古天皇の二十八年(六二〇)に聖徳太子等によつて撰録された書卷のうち、天皇記というのも、この種のものであつたのだろう。奈良時代には、帝紀、日本帝紀など稱する書物の存在したことが知られ、日本書紀に見える帝王本紀というのも、同樣の書物であつたのだろう。
 本辭は、また舊辭(くじ)ともいい、これらの語は、古事記の序文以外には、古い使用例が無い。その内容は、神話、傳説、昔話、物語の類をいうものの如く、まとまつた書物とはならなかつたようであるが、その或る一部は、既に文字によつて記されたものもあつたようである。
 帝紀や本辭に、誤謬が多くなつているという觀察がなされたのは、種々の原因があるだろう。一つには主として口誦による傳來において、自然に生じた差違があるだろう。時代の推移に伴なつて、新しい解釋も加わり、また他の要素を取り入れて成長發達もしてゆくであろう。また一方には、諸家に傳わるものは、それぞれその家を本位として語り傳えられてゆくために、甲の家と乙の家とで、違つたものを傳えることにもなる。例えばアメノホヒの命の如き、古事記に採録した傳來では、よくは言わないのだが、その神の子孫であるという出雲氏の傳來では、忠誠な神とするような類である。
 かくの如くにして諸家に傳來した帝紀と本辭とに對して、これを批判して整理されたのが天武天皇であり、これを誦み習つたのが稗田の阿禮であり、これを文字に書き綴つたのが太の安萬侶であつて、古事記は、この三人の共同事業ということになる。
 そこで古事記には、帝紀を材料としたものと、本辭によるものとがあるはずであり、今日の研究の段階では、ある程度これを分解することができる。帝紀については、他に文獻もあつて、大體どのような内容のものであるかの推測ができるので、まず古事記について、帝紀から來たと考えられる部分を抽出する。そうして殘つた部分が、本辭から來たものと見るのである。
 かくして古事記が、帝紀の記事と本辭とを繼ぎ合わせて成つたものであることがあきらかにされる。兩者が巧みに融合している部分もあり、またどちらから來ているか問題になる部分もあるが、大體においては分解が可能であり、これによつて古事記の性格もあきらかにされるのである。傳來の形にしても、從來ある一部の人によつて信じられていたように、現在の全形で古くから語り傳えられていたものでは無いことがわかる。
 古事記の内容は、天地のはじめの物語から始まつて、推古天皇の御事蹟に終つている。上卷は、神代の物語、神話と呼ばれるものであつて、これは本辭を材料としているであろう。しかしこれもはじめから纏まつて語り傳えられたものではなくして、もと遊離して存在していた神話を、ある時期に繼ぎ合わせて成立したものと考えられる。
 さて中卷は、神武天皇から應神天皇まで、下卷は仁徳天皇から推古天皇までの計三十三代の天皇の御事蹟である。この二卷は、帝紀の記事を骨子として、これに本辭から來た材料を配合して成立している。三十三代のうち、神武、崇神、垂仁、景行、仲哀、應神、仁徳、履中、允恭、安康、雄略、清寧、顯宗の各天皇の記事は、本辭からの材料を含んでいると見られて、長大複雜であり、他の二十代の天皇の記事は、主として帝紀のみに依つたものの如くで、簡單である。この簡單の部分は、帝紀の原形そのままであるとも斷言はできないけれども、少くも帝紀の原形を窺うに足るものである。そこでもし帝紀の原形を窺おうと思うならば、例えば綏靖天皇の記事のような簡單なものを見ればよいのである。しかし帝紀からの材料によつている部分でも、后妃や皇子皇女に關しては、家々の傳來を取り入れているものもあるだろう。
 帝紀と本辭とを組み合わせて書かれている部分は、大體、帝紀の記事を二つに分け、その中間に本辭からの物語を插んで成立しており、また天皇崩後の物語をその後に附けているところもある。神武天皇の御事蹟は、帝紀と本辭とが巧みに融合して、分解することがやや困難であるが、その他は大抵容易に分解することができる。

 帝紀と本辭とは、本來性質を異にするものである。帝紀は、歴代天皇の御名、皇居、治天下、后妃、皇子皇女、崩御、御壽、山陵について述べ、これに大きな事件の項目だけを加えたと見られるものもある。これを御即位の順序に配列した事務的なものである。これに反して本辭は、神話、傳説、昔話、物語というように、説話系統の形式を有するものであつて、信仰、政治、文學、藝能等の各種の方面にわたつて、豐富な内容を持つている。これをその中に登場する人物によつて、神代および各天皇の時代にそれぞれ配當したものである。
 そこで古事記は、神代から以下、歴代天皇の時代に及んで、時代順に敍述されている大きな物語と見ることができる。それと同時に、一方では、時代というつなぎによつて配列されている小説話の集録とも見ることができるのである。勿論この書によつて取りあげられている時間的配列は、そのままには信じられないものであるにしても、この書自身においては、眞實に近い時間的配列であると考えていたであろう。
 そうしてその内容についても、かつて一度眞實に起つた事として傳えているのであろう。それは序文において、この書の要求されるわけを論じた部分によつても知られるところである。しかし今日においては、この書の記事のすべてが、眞實にかつてあつた事とは信じない。帝紀の部分においては、元來天皇即位という、大きな事實を語るものであるだけに、その古い部分や、またこまかい記事については別として、大體においては、事實を傳えたものということができよう。しかし本辭の部分は、説話であつて、浮動性が多く、よし若干の事實を根據として出發したものであつても、その各時代への結びつきは、そのままには受け入れがたいものである。
 帝紀は、主として皇室、およびその系統の家に傳えられたのであろうが、本辭の傳來は、さまざまであつたのである。まず皇室をはじめ、諸家において、その祖先に關する説話を傳えているであろう。それはその家のはじめを語るものもあり、また英雄佳人の事蹟を語るものもある。次に諸國に語部(かたりべ)と稱するものがあつて、大嘗祭の時などに宮廷に出て來て、古詞を唱え、その採録されたものもある。その外、祭の詞から拔け出して語り傳えられたもの、歌曲舞曲などの形で傳えられたものもあり、民間に語り傳えられたものもあつて、その傳來の形式は、實にさまざまである。
 このような各種の傳來による材料を、手ぎわよく整理して一貫した内容の作品を構成している。このような説話の類は、なお無數に存在していたであろうが、それらの中から採用されたものが、それぞれの位置に配列されているのである。
 採用されるに當つては、種々の理由があつて、それがその説話の位置をきめるに役立つている。まずその説話の中に語られる人物が、歴史上の人物として知られていること。勿論その人物は、その説話に不可分のものばかりではなく、同じ説話を日本書紀においては別の人物に當てているものもある。しかしとにかく、ヤマトタケルの物語、オホハツセの天皇の物語というようなものを取りあげて、それぞれの人物の名のもとに織り込んでいるのである。これは神代の部分においても同樣であつて、例えば、スサノヲの命の物語を、その神の名のもとに集めていると見られるが如きである。
 次に、國家組織、社會組織に對して説明を與えようとする意圖の見られることが指摘される。神代をもつて、歴史上の古代とし、日本の國のおこりが、その神代にあることを證明しようとした。そうして天皇家が神の子孫であることを説明しようとした。このために神話が採擇され配列された。また歴代天皇の物語にしても、國家組織の確立を語るものとして採擇されたものが少くない。一方では、國家および皇室との關係を語る各氏族の説話は、ずいぶん廣く採擇している。おのおのの氏族は、その系統が重視され、これによつて社會上の地位も決定されたので、ここにその氏族の祖先の説話が、それぞれの家にあり、これが古事記によつて多く採擇されている。それらの説話の内容は、ひとり國家に對して忠誠であつた物語のみにとどまらず、皇室の祖先の兄ではあるが、まずいことをしたために臣下となつたという話や、はなはだしいのは、皇室に對して反逆を企てて殺されたという話――例えばサホヒコの王、オホヤマモリの命の話など――もある。そういう反逆人の子孫が、氏族として榮えているのだから、それによつてもこれらの説話の存在の意味がおし測られる。
 次に、思想的の理由によつて採擇され配列されたものがある。古人が、萬物の存在に關して思索した結果、いかにしてこれが存在するかの問題を、説話によつて説明した。これはすべての事物の起原を語る物語となつて現れ、またそれらの事物が出現し活動する原理を思索して、神靈の形式においてその概念を表現した。また人生の諸問題について、信仰によつて解決する場合にも、説話としての形式によつてこれを表現して、人生指導の根據とした。かくの如き類は、みな古事記によつて採擇されているところである。
 次に、興趣のゆたかな説話が多く採擇され配列された。その一つに文學的興趣のゆたかなものがある。歌曲舞曲の如きは、古い時代から喜ばれていたであろう。それらは引き續いて行われていたものもあるであろうし、また既に古曲となつて詞章だけが傳わつていたものもあるかもしれない。古事記は、そういう類のものからも採擇した。それらは或る人物の事蹟として、歴史的に結びつけられたのである。古事記に載せた歌謠のうち、歌曲としての名稱を傳えているものの多いことは、この間の消息を語るものである。海幸山幸の神話の如きも、原形は舞曲であつたのだろうが、のち獨立の説話として傳播し、古事記にも採擇されるに至つたようである。また一方には、奇事異聞ふうな説話があつて、これも興味が寄せられるままに採擇されている。
 以上、採擇の理由となつたと思われるところの、おもなものについて擧げて來たが、勿論一つの説話が各種の條件を兼ね備えているものが多く、また部分的にある種の條件を備えているものもあるのである。とにかく各種の方面から採擇したものが、混合して存在していると考えられるが、これらがいかなる段階において採擇結合したかというに、これも恐らくは一樣でないのだろう。
 本來は別個の存在であつた帝紀と本辭とを、一つに結合することは、天武天皇の御企畫であつたようであるが、實際稗田の阿禮に對して、どのような形で誦み習わしめたのかはあきらかで無い。帝紀を資料とする部分が、特殊の文字使用法を温存しているによれば、太の安萬侶が文を書くに當つて、成書である帝紀を使用したものの如くであり、稗田の阿禮は、成書の帝紀を讀みながら、本辭の物語を插入して語つたかどうか、今日では不明である。ただ文字に書くに當つて新になされたと見られる結合の部分も指摘される。それと同時に、本辭自體において、もつと古い時代に既に結合していたものもあるのだろう。諸家の傳來を總集したのだから、自然系統の相違する説話も結合されている。例えば、神代の説話において、二大系統である高天の原系統と出雲系統との神話が、或るものは融合して一つになり、或るものは融合しないままの形で接續している。例えば誓約の神話において、系統の違う氏族の祖先が、共に出現すると説くことなど、かなり古い結合によるものではないだろうか。出雲系であるスサノヲの命が、高天の原系統の神話に現れることなども、天武天皇が新に整理された結果であるとは考えられない。

 以上、古事記の組織について述べて來たことによつて、古事記の性質もあきらかにされると思う。歴史的事實を語るものとして解釋してよいものと、そのように解釋してはならないものとが混合されているのである。勿論どのようなものでも、人生を離れては存在しないのであるから、その意味では、人生の歴史を語るものであるに相違はないが、ただ言葉によつて表示されている通りに事實があつたとするわけにはゆかないのである。
 帝紀と本辭との結合の企てられた天武天皇の時代は、國家組織が完成し、中央政府の權力が強大となつた時代であつた。そういう國家組織の説明のために、古事記の撰録が企畫されたのである。また古事記が、書物として成立した奈良時代の初期は、大陸の文化の影響を受けて、文化運動の盛んな時代であつた。この文化運動の一環として歴史的體系による古事記日本書紀は成立し、地誌的體系による風土記は選進されたのである。
 奈良時代の文化は、大陸の文化を指導者としての文化であつた。そこに使用される文字は、漢字であつて、公用文としても漢文が書かれていた。從つてその時代に成立した書物は、漢字で書かれる外は無く、日本書紀の如きも漢文で書かれている。しかしながら國語で傳えられたことを、漢文で表現することは、困難であり無理でもあるので、漢字を使つて國語の文を書き現すことも種々試みられた。漢語と國語とでは、特に語序が相違し、また補助詞の用法に相違がある。そこで、國語の語序による文字の位置や補助詞を音韻によつて表示する方法などが考案された。古事記は、これらの種々の表示法を併用して、漢文ふうにも、國語の音韻表示のふうにも、交えて書いた。そうして常に註を加えて、讀み方や意義について説明している。歌謠の如きは、特に國語の原形を尊重するが故に、全部字音による音韻表記の法によつた。本書では、すべて原文を省略したから、今參考として、天地のはじめの條の一部の原文を次に載せる。

天地初發之時、於二高天原一成神名、天之御中主神、(訓二高下天一云二阿麻一、下效レ此。)次高御産巣日神、次神産巣日神。此三柱神者、並獨神成坐而、隱レ身也。次國稚如二浮脂一而、久羅下那州多陀用弊流之時、(流字以上十字以レ音。)如二葦牙一因二萌騰之物一而、成神名、宇摩志阿斯訶備比古遲神、(此神名以レ音。)次天之常立神。(訓レ常云二登許一、訓レ立云二多知一。)此二柱神亦並獨神成坐而、隱レ身也。

 句讀點、返り點は、原文には無く、後人の附けたものである。
 これはもと國語による傳承を、なるべく原形を保存する形で文字に表記したものと考えられるが、さてこれを讀むことによつて、もとの國語に還すことは、なかなか困難である。久羅下那州多陀用弊流の如きは、音韻表記がなされているから、クラゲナスタダヨヘルと讀むことができるが、その他の部分は、簡單にはゆかない。天地初發之時の句にしても、アメツチノハジメノトキ、アメツチノハジメテオコリシトキ、アメツチノハジメテヒラクルトキなど、さまざまの讀み方が考えられている。撰者にしても、意味が通ればよいとしたものであるかもしれない。しかし隱身也の如きは、ミミヲカクシタマヒキの訓と、カクリミニマシキの訓とが對立しており、これは讀み方によつて意味が相違してくるので、どちらでもよいというわけにはゆかない。
 太の安萬侶は序文については、りつぱな漢文で書いているのであつて、漢文の素養の十分にあつた人と考えられるが、古事記の本文を書くに當つて、漢文のみを採用せず、できるだけ國語の原形を保存するに努めたことは、大きな功績である。國語の傳承は、漢文に譯してしまつては、本意を失することが大きいのである。
 古事記は、成立の後あまり廣くは行われなかつた。これは、その成立後八年にして、日本書紀が成立し、これが國家の正史として見られたからでもあるのだろう。日本書紀は、三十卷あつて、帝紀と本辭のほかに、できるだけ廣く材料を集めて編纂したようであつて、古事記にくらべると時代が下るに從つて詳密になつている點に特色がある。
 古事記は、古いところでは、萬葉集、土佐國風土記、琴歌譜等に、書名をあげて引用しており、先代舊事本紀には、書名はあげないが材料として使用している。その後流布されることが少かつたらしく、中世の頃は所在が稀であつたという。從つて古い寫本も少く、應安四年五年(一三七一、一三七二)に書かれた眞福寺本が最古の寫本であるに過ぎない。しかし近世國學が興るに及んでは、日本書紀をもつて漢意が多いとし、古事記を偏重するようになり、本居宣長の古事記傳の如き大著をも見るに至つた。
 最後に古事記の註釋書のおもなものをあげておく。
古事記傳   本居宣長
本居宣長全集に入つている外に、數種の刊行がある。
古事記新講  次田潤
古事記評釋  中島悦次

 古事記の神話、説話は、歴史的體系のもとに序列されてあるので、種類性質による配列はない。よつて今、便宜のために、そのおもなものを種類わけにして次に掲げる。一の神話説話については、そのおもな性質によつて分類したが、數種の性質を有するものは、各項に重出したものもある。各稱の下の數字は本書のページ數である。

祭祀    鎭火祭 道饗祭 身禊 風神祭 誓約 天の岩戸 祓 收穫の神の系譜 新嘗祭
神宮神社  草薙の大刀 須賀の宮 御諸山の神 出雲大社 伊勢の神宮 氣比の大神 比賣碁曾の社 出石の大神
天降    伊耶那岐の命 菩比の神 天若日子 建御雷の神 邇々藝の命
神教    天の神の教 雉子 事代主の神 熊野の高倉下 八咫烏 弊羅坂の[#「弊羅坂の」はママ]少女 神功皇后
神の出現  少名※(「田+比」、第3水準1-86-44)古那の神 一言主の神
神の祟り  出雲の大神
呪禁卜占  太卜 鎭懷石 うけひ うけひ狩 神うれづく
神婚    豐玉※(「田+比」、第3水準1-86-44)賣の命 大物主の神 肥長比賣 阿加流比賣の神
異郷    黄泉の國 根の堅州國 海神の宮
事物の起原 天地のはじめ 婚姻 大八島 萬物 三貴子の出現 穀物 醫藥 葦原の瑞穗の國 天皇の御命 時じくの香の木の實 松浦河の釣魚 吉野の蜻蛉野(他の地名起源は省略)
英雄豪傑  八岐の大蛇退治 建御雷の神 神武天皇  五瀬の命 大※(「田+比」、第3水準1-86-44)古の命 倭建の命 建振熊 雄略天皇
氏族    海神の系統 民族同祖 猿女の君 意富の臣等 建内の宿禰の系譜 置目の老媼
兄弟の爭い 大國主の神 海幸と山幸 大山守の命 秋山の下氷壯夫
兄弟の國讓 神八井耳の命 兎道の稚郎子 仁賢天皇
頌徳    初國知らし御眞木の天皇 聖帝の御世 雁の卵
國土    千葉の葛野
求婚    八千矛の神 神武天皇 若日下部の王 金※(「金+且」、第3水準1-93-12)の岡
婚姻    伊耶那岐の命 木の花のさくや姫 美夜受比賣 蟹の歌 髮長比賣 吉備の黒日賣 八田の若郎女 木梨の輕の太子
妻爭い   大國主の神 伊豆志袁登賣 女鳥の王 歌垣
嫉妬    須勢理※(「田+比」、第3水準1-86-44)賣 石の比賣の命
醜女    石長比賣 丹波の二女王
勸盃    須勢理※(「田+比」、第3水準1-86-44)賣 酒樂の歌 三重の采女
御子の誕生 日子穗々手見の命 鵜葺草葺合へずの命
刀劒    天の尾羽張の神 草薙の大刀 佐士布都の神
葬式    天若日子 倭建の命
叛亂    當藝志美美の命 沙本※(「田+比」、第3水準1-86-44)古の王 墨江の中つ王 目弱の王
藝能    國主歌 枯野といふ船 吉野の童女 歌垣
雜     兎と鰐 ※(「討/虫」、第4水準2-87-68)貝比賣と蛤貝比賣 大國主の神の災難 神名の名のり 建御名方の神 引田部の赤猪子 志自牟の新室樂

底本:「古事記」角川文庫、角川書店

   1956(昭和31)年5月20日初版発行

   1965(昭和40)年9月20日20版発行

青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)より引用

yahoo知恵袋より引用

古事記や日本書紀なんて原書は現存するんでしょうか?
古事記の原本は失われています。 下のサイトで 現存するものでは最善の写本といわれる 「真福寺本」を見ることができます。 参考URL:http://www.neonet.to/kojiki/index.htm